現在、気象予報士として活躍する石原良純さん。
実は過去に俳優業をしていたことはご存じでしょうか?
20歳での映画主演デビューから人気ドラマへの出演、そして気象予報士への転身まで、石原さんの多彩な魅力に迫ります。
- 20歳で華麗に映画主演デビュー
- 俳優時代に人気ドラマで大ブレイク
- 石原軍団での驚きのエピソード
- 俳優から気象予報士へ
それでは行きましょう。
20歳で華麗に映画主演デビュー

石原良純さんの俳優デビューは、なんと20歳での映画主演でした。
1982年10月2日公開の松竹映画『凶弾』で、荒木英夫役を演じています。
「荒ぶる貴公子」というキャッチフレーズで注目を集め、日本アカデミー新人俳優賞も受賞しました。
若くして主演を務めた石原さんの演技力とアクションシーンの迫力は、当時大きな話題となったようです。
STORY
出典:松竹
少年院出身の仲間、荒木英夫(石原良純)、沼田昭彦(古尾谷雅人)、内山正一(山田辰夫)の三人は北アルプスで、英夫の父が残した猟銃を撃っていた。
『凶弾』では、緊張感のある演技で観客を魅了していったそうです。
特にアクションシーンでは、若さと身体能力を活かした迫力ある演技を披露し、石原さんは「次世代のアクションスター」としての期待を一身に集めていきました。
しかし、映画界でのデビューは必ずしも順風満帆ではなかったそうです。
『凶弾』は興行収入が振るわず2週間で打ち切りとなってしまいました。
俳優時代に人気ドラマで大ブレイク

映画デビューの翌年、石原さんは1983年には人気ドラマ『西部警察PART-III』に出演しました。
21歳で五代純(ジュン)役を演じ、第8話から登場しています。
ラリー国際大会優勝クラスのドライビングテクニックを持つ刑事役で、若手ながらアクションと運転技術を活かした活躍を見せていました。
この作品で、石原良純さんは叔父の石原裕次郎さんが創設した石原軍団の最年少メンバーとして注目を集めていきました。
『西部警察PART-III』での石原さんの演技は、視聴者から高い評価を得ました。
特に、車を駆使したカーアクションシーンでは、実際の運転テクニックを活かした迫力ある演技で観客を魅了していきました。
若手俳優ながら、ベテラン俳優に引けを取らない存在感を示していくことになります。
元チンピラながら神父の息子で自らもクリスチャンという設定の山県は、同じくPART-Ⅲから登場する五代刑事(石原良純)と共に、本作の人気を支えた。五代は第8話より登場し、ラリーの国際大会で優勝するほどのドライビングテクニックを武器に活躍。当初は無鉄砲な捜査ぶりを叱責されたこともあったが、大門らの指導で成長していく。
出典:J:magazine!
さらに、1984年から1986年にかけては、国民的人気ドラマ『太陽にほえろ!』に水木悠(通称マイコン)役でレギュラー出演しました。
パソコンオタクの刑事という先進的な役柄を演じ、「ホームズIII世」というパソコンを駆使して捜査に当たる姿が話題を呼んだようです。
最高視聴率42.5%を記録する大ヒット作となり、石原さんの知名度も一気に上昇しました。
裕次郎の甥である石原良純がこのエピソードから「マイコン」のニックネームでレギュラー出演。マイコンのガールフレンド・美津子役で沢口靖子も出演。沢口靖子のテレビドラマ初出演作品となった。
出典:テレビドラマデータベース
石原軍団での驚きのエピソード

石原軍団での活動は、若手俳優としての石原さんにとって厳しくも貴重な経験となりました。
石原軍団は「超縦社会」と呼ばれるほど厳格な上下関係が存在し、若手メンバーである石原さんにとっては、常に緊張感のある環境だったそうです。
食事の際は若手から順番、お酒の注文も気を利かせる必要があり、入浴の順番も決まっていたようです。
石原さんは「先輩が入った後、最後に入り最初に出る」という掟を守らなければなりませんでした。
特に印象的なのが、地方ロケでの過酷なエピソードです。
先輩たちが残したおにぎり40個を全て食べさせられるという体験をしたそうです。
他にも舘ひろしさんとのエピソードは有名で、舘さんから「あいつちょっと締めとけ」と言われたり、バーベキューで服をナプキン代わりに使用されたりと、厳しい扱いを受けることもあったようです。
石原さんは「怖かった~」と当時を振り返りつつも、「今でも舘さんに『1億円貸してください』と言ったら貸してくれると思う」と、現在では深い信頼関係があることを明かしています。
今ならパワハラと言われるかもしれないけど、僕はその分、面倒も見てもらって、『俺に何かあったら絶対に先輩が助けてくれる』と思っていた。今でも僕が舘さんに『どうしてもお金が必要だから1億円貸してください』と言ったら、貸してくれると思うよ(笑)」
出典:NEWSポストセブン
俳優から気象予報士へ

石原良純さんは、俳優として成功を収めながらも、新たな挑戦を決意しました。
1993年頃、テレビ番組の控室で気象予報士の森田正光さんと出会ったことが、キャリアチェンジのきっかけとなったそうです。
森田正光氏に推められて、気象予報士試験に挑戦。2度目の挑戦で合格。太陽、地球、空気、水。この4つがあるから気象現象が起こる。気象学は神の目を持つ学問なのだと知る。
出典:石原良純公式サイト
石原さんは幼少期から天気や自然現象に強い興味を持っていました。
生まれ育った湘南の海や空の広もあって、その興味を育んだのかもしれません。
そして「海辺に出ると空が広い。四季折々、朝昼晩、色んな表情を眺めるのは飽きない」と告白。「僕はこの空が楽しくて、気象予報士の試験を受けたのです」と、合格率が5%前後と言われる難関資格を取得したきっかけについて明かした。
出典:スポニチ
また、俳優業の不安定さも一因とのことです。
より安定したキャリアを求めていた石原さんにとって、 気象予報士という専門性の高い職業は、その要求に応えるものだったようです。
35歳となる1997年、合格率わずか4%という難関の気象予報士試験に見事合格し、俳優から気象キャスターへと転身を果たされました。
石原さんのキャリアチェンジは、単なる職業の変更ではなく、自身の興味と適性を見極めた上での決断だったようです。
まとめ
石原良純さんは、20歳で映画主演デビューを飾り、人気ドラマに次々と出演。
石原軍団の最年少メンバーとして活躍した石原良純さんの若い頃は、まさに華麗な経歴の連続だったようです。
そして、俳優としての成功を収めながらも、新たな挑戦として気象予報士への転身を果たした石原さん。
その多才な魅力と挑戦し続ける姿勢は、今も多くの人々を惹きつけ続けています。
若い頃の華やかな俳優時代から、現在の気象予報士としての活躍まで、石原良純さんの人生は常に挑戦と成長の連続だったと言えます。
石原さんの経歴は、私たちに新たな可能性に挑戦する勇気を与えてくれています。
これからも石原良純さんの挑戦から目が離せませんね。
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